地震の日のこと

11日の地震発生時は、当然仕事中だった。「あれ、揺れてるよね?」というレベルから徐々に強くなり、女性の多いフロアなので悲鳴も聞えた。また、それ以外にも何かよく分からない音も聴こえた。後から考えると、地響きと木の枝がぶつかり合う音じゃないかと思う。

揺れが落ち着くと、自分も含めて興奮していて普段より笑顔の多い状態だったのではないかと思う。しばらくすると屋外に避難するようにとのアナウンスがあった。

私が働いている職場はメーカーの工場なので、自分のような外注も含めて数千人単位の従業員がいる。大きな事業所なので年に一度は屋外に避難する訓練を実施しており、実は今年の避難訓練はその週の火曜日に行ったばかりだった。その時に「まだ上着なしでは結構寒い」ということを実感していたので、揺れている間にダウンジャケットに袖を通していた。それにしても花粉症の人は週に2回も屋外に駆り出されてかわいそう。

屋外を移動中に結構大きな余震があった。事業所の中で比較的新し建屋がぐわんぐわんしなっているのが見えて怖かった。

地震発生から1時間ほどして職場に戻った。テレビは津波警報が出ていることを伝えていた。大津波警報というのを初めて見た気がする。NHKは東北の海岸線を映していた。しばらく静かなものだったが、そのうち水につかり始めた駐車場の映像が映り、本当に津波が来ていることが分かった。

ショッキングだったのは、津波から逃げる車が次々と飲み込まれていくヘリからの映像だった。もっとも、実際に飲み込まれる瞬間は見えなかった。何かの配慮からか無意味なスタジオの映像に切り替わり、戻ったシーンでは先ほどまで逃げていたはずの車が「無くなっていて」、しばらく考えて「飲み込まれたんだ」と解釈した。ここでようやく阪神大震災に匹敵するかそれ以上の震災であること分かった。

携帯電話は早い段階で、不通になっていたが、データ通信は可能だった。外に避難している間は、TwitterNHK WorldのiPhoneアプリで情報を入手できた。妻には一度だけメールが通じた。まだ立川の職場で、これから保育園に子供たちを迎えに行くが、電車が止まっているということだった。

職場で一応安全衛生の係になっているので、先ほどしなっていた別の建屋の、同じ会社のメンバーが働くエリアを見に行った。そこは、パーティションやホワイトボードが倒れているなど、私の職場よりも地震らしい被害が出ており、そのエリアに常駐する同僚の殆どは退社していた。

電車は動いておらず、いつになったら動き出すのか分からなかったが、妻と連絡が取れておらず少し心配だったため、歩いて家の方に向かうことにした。電車が動き出したらすぐ乗れるよう、基本的には青梅線の線路沿いを歩いていくという方針で18時ころにスタートした。

しかし、1時間も歩かないうちに妻からメールが返ってきた。子供たちは既に家に戻っており、迎えに来てくれるとのことだった。普段であれば、家で待っているようにお願いするところ。たまたま大阪から家事を手伝いに来てくれていた義母が子供たちの面倒を見てくれるそうなので、少し迷いながらも途中まで迎えに来てもらうようにした。

福生駅でアナウンスがあり、JRはその日の運行をすべて取りやめたことを知る。

新奥多摩街道沿いで分かりやすい駅を探しているうちに、牛浜駅そばのステーキのどんに入る。風が強く気温も下がってきており、正直歩くのがつらくなっていた。結局歩いたのは1時間半ほど。

夕ご飯はハンバーグ。妻も到着してステーキ。立川方面から歩いてきたという会社の同僚ともステーキのどんで出会った。

21時過ぎにステーキのどんを出た。新奥多摩街道は上り方面がまったく動いていないので、16号に出た。思いの他こちらは空いていて、五日市街道→昭島の裏道を通りまったく渋滞に巻き込まれることなく昭和記念公園を過ぎた。立川駅まえで渋滞が見えたので、立川駅の西側の抜け道に出ようとしたが、そちらも渋滞。よく見ると渋滞どころか、道路が閉鎖されているところもある。閉鎖されている道路の先を見ると、止まっているはずの青梅線(中央線からの支線)の踏切が下りている。おそらく故障して鳴りっぱなしになっていたのだと思う。

ラジオからは被災地からの被害のニュースや帰宅困難者のための休憩所などの情報が流れていた。どこかの海岸では200〜300もの遺体が発見されたなど、胸のつぶれるニュース。自分は(今のところ)安全な場所におり、多少の不便で大騒ぎしているのが恥ずかしくなった。

結局立川通りの渋滞は避けられず、帰宅は23時過ぎだった。近所の24時間営業の西友も閉まっていた。